大学では数理工学科を卒業後、建築学科に再入学する
18歳の時生まれ育った徳島の高校を卒業し、京都大学工学部数理工学科に入りました。具体的に社会に役に立つ数学をやりたくて選んだ学科でした。しかし学年が進み専門課程を学んでいくうちに、この道は自分に合うのかと自問自答するようになっていました。そんなとき下宿で学科要覧を眺めていて建築学科に転向しようと思いつきました。それには建築学科で学ぶ内容が書かれていて都市論、建築史、設計、住居学などどれも魅力的に見えました。京都に来て、毎日古い寺院建築の庭を通り抜けて学校に通う、その傍らに当時すでに有名になっていた、安藤忠雄や高松伸の設計した新しい建築が建っているような刺激的な環境だったことが影響したのかもしれません。数理工学科を4年で卒業すれば建築学科の3年に学士入学する制度が利用できたので、そうすることにしました。
建築学科に入ると建築家高松伸が非常勤講師として設計演習の課題を担当していました。高松伸は「風景のパヴィリオン」という設計課題を出し、風景という言葉だけを頼りに、なんのために作る建築なのか、どのような物語を描くのか学生に考えさせる課題を与えました。この課題で設計というものに興味を持つことになりました。大学には24時間出入りできた製図室があり、設計課題の締め切り間際になるとほぼ全員が徹夜をして課題を仕上げていました。製図室で仲間と、各々の提出物についてああでもないこうでもないと議論しあうことで、お互いの能力を伸ばしあっていたように思います。
大学4年になると卒業設計がありました。テーマ設定が自由だったので、どのような建築を社会に作ればいいのか悩んで時間だけが過ぎていきました。尾道にすでに存在している造船所のドックを、演劇や演奏会を行うための野外施設に改造するテーマに行き着いた時に、提出まで1月半になっていました。具体的に設計すること以上にテーマ設定そのものに時間と労力を費やした経験は後々にも大きく影響を与えているのではないかと思います。卒業制作にあたり、京都市内の京都工芸繊維大や京都府立大の有志で合同卒業設計展を企画しました。他の大学の人たちと一緒に会場を調達し、展示計画をし、スポンサーを集め、パンフレットをつくりと奔走しました。その友人たちとの共同作業から建築に対する考え方の多様性を学びました。
学部4年から大学院にかけて、川崎先生と新しく赴任した竹山先生の研究室に所属しました。意匠設計と設計方法論がベースとなる専攻のはずでしたが、竹山先生が唱える「都市や文化・文明について」考えることが面白く、ひとつの建築を設計する前にどのような世界観を持ち、どのような未来を想像して創作すればよいか考え続けて過ごしました。
大学院在学中にスペインの建築設計事務所で研修生となる
大学院に入り、最初の夏休みにスペインの建築設計事務所の研修に行くことになりました。大学院1年のとき学科の掲示板に張り出されていた、夏休みの国際学生技術研修生募集の張り紙を見つけ応募したのです。試験を受けると採用となり、希望国を選べたので地中海沿岸のどこかの国に行きたいと思いました。子供の頃見たTVアニメや童話に描かれた、イタリア中世の街並みのなかで人々が活き活きと暮らす様を覚えていたからでした。そのような街で研修したいと思っていくつかの国を希望し、あとは選定の返事を待つことにしました。出発直前、スペインのバレンシアにある建築設計事務所が研修先だと知らされました。第一希望のイタリアに行くつもりで大学のそばにあったイタリア文化会館へ語学を習いに行っていましたが、急きょスペイン語に変更して初めての海外生活に出発しました。
数カ月の研修のあとバレンシアから帰国し、人々の暮らし、ゆったりとした価値観や数値に表れない生活の豊かさをすっかり気に入りました。日本は当時バブル経済の余韻がまだあり世界第2位の豊かな経済大国であると誰もが信じていました。しかし地中海文化圏に暮らしてみて、何が豊かさといえるのか考え込んだのもこの時です。
大学を卒業して東京の建設会社に就職する
大学院を卒業して東京の建設会社の設計部門に就職しました。とにかく一度実社会で建築を作る経験をしなければと思ったからでした。在籍8年の内約4年間を新橋の近くの旧国鉄汐留貨物ヤード跡に建つホテルとオフィスの高層ビルの設計に費やしました。社会に出て初めて師匠と呼べる上司にも出会いました。建設会社の設計部でしたので自由な造形のできる設計の仕事は限られていましたが、その上司との仕事ではどのような厳しい条件のなかでも、何度も図面を描きなおし、検討を繰り返すことである「質」に到達できると信じてやっていました。どんなにつまらなそうに見えるものでも、よく見て何度も考えることでより良くなっていく。今でも忘れそうになることですが、この時期に身をもって覚えました。設計部にはサラリーマンでありながら自由な空気が満ちていて、個性的な同僚や先輩、後輩に恵まれました。今ではそれぞれの道でがんばっていて、たまに会って変貌ぶりを報告しあうのが楽しみです。
やがて、会社員としての仕事や東京での生活に慣れてくると、空いた時間が手持ち無沙汰になりました。回りの同世代の人は会社の仕事とは別に個人的に国際コンペなどに応募する人や、早々と独立して住宅を設計してしまう人が現れ始めました。私は池袋近くの南長崎というところにある6畳ほどの社員寮で、会社の仕事が終わって帰宅してから、机に向かって、一人で設計コンペに応募したりしていました。そうこうしているうちに、関っていた高層ビルが完成する日が近づきました。私は何かを思い出したように退職願を上司に提出していました。次に具体的な仕事があるわけでないのに独立を宣言したのです。
スペインの村にある建築設計事務所に勤務する
しばらくは自宅を仕事場にして始めました。この時期1軒の住宅を設計する機会に恵まれ、現場を監理して完成までこぎつけました。会社員時代はプロジェクトを動かす組織の1人だったに過ぎず、今度は個人で施主や現場を相手にプロジェクトを進める立場に代わりました。立場の違う、施主や近隣住民、共同設計者、施工者との関係性の中でいかにして建物の面倒をみていくか模索していた気がします。思っているようにはいかないことばかりでしたが、2005年秋に完成しました。
住宅が終わったその次の週には再びスペインへと向かう機上の人となりました。バルセロナからバスで2時間程のピレネー山脈の麓にオロットという街があり、その街の建築設計事務所RCRアーキテクツで働くためでした。街は人口約3万人ののどかで自然豊かな町で、休みの日に郊外に散歩に出ると馬に乗った地元の人に出会うほどでした。鉄道もなく、バルセロナと結ぶバスは日曜日には便数も少なくなり、車がなければ陸の孤島のように感じらました。それにもかかわらず、事務所は3人のボス以下総所員の3分の2が外国人という国際的な職場環境でした。事務所で使われる言語はスペイン語、ボスたちやローカルの人々はカタラン語というスペイン語にもフランス語にも近い言葉をしゃべり、これに外国人スタッフが同郷の国言葉で会話していました。フランス、ポルトガル、イタリアやドイツ各国語が飛び交う中で働いていました。小さな村の生活では、各国からやって来た同僚たちと仕事が終わってから、飲みに行ったりサッカーを見たりして楽しみました。
働き始めて半年ほどたった頃、16世紀に建てられた教会の鐘を鋳造していたとされる石造の鍛冶工場を勤め先の新事務所に改修する仕事を担当するチャンスが訪れました。日本では、普通に仕事をしていると「世紀」という時間単位を意識することはないのですが、ここでは日常的に何世紀に建てられた建物かどうか話題になっていて、古いものほど人々は価値を認めていました。
ある日現場に行くためボス、ラモン・ヴィラルタの運転する車に乗りました。私は住んで1年にもなるのにスペイン語がおぼつかなくいつも何を言われるか緊張していましたが、このときも「君のスペイン語はひどい、日本人は全くスペイン語がだめだ。君をなぜ雇っているか。日本は我々スペインと全く違う文化を持っている。私は今まで見たこともない発想をしてほしいから君のような外国人を雇っているのだ。いわれたことやっているだけじゃだめだ。」と言われました。機嫌が悪いときのスペイン人ほど手のつけようがないのはわかっていたので黙って聞いていました。異文化からの期待ゆえの一言が今にして思えば糧になっていると思います。やがて担当していた現場が終わりに近づいたので、日本に帰国しゼロから設計事務所を始めることにしました。